今やボストンで知らない日本人はいない経営者は、英語も分からないところから、途中借金をかかえても、どうやって道を切り拓いてこられたのか。挑戦者 Vol.15

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ボストンにはどういうきっかけで来られたのですか?

広本ケビンです。
ボストンにはもう30年以上います。ボストンに来たきっかけは世界的なドラムの先生のレッスンを受けるためでした。日本にいた時にドラムをやっていて専門学校で講師をしていました。世界一のドラマーがボストン近郊のレキシントンに住んでいるということを知って、レッスンを受けたくて3年間手紙を書き続けました。当時はインターネットなどありませんでしたが、今のような個人情報保護がなく、雑誌などに芸能人の住所や電話番号が掲載されているような時代。たまたま知り合った、日本人女性と結婚したアメリカ人に、先生の住所が分からないものかと相談したところ、すぐに分かるよと返事をくれて宛先を調べてくれました。そしてそこに手紙を書き続けたわけです。手紙を書いて発送する。2週間ほどで届くだろうと考えて、そこから返事を書いてもらって、また2週間ほどかかる。つまり1ヶ月くらいで返事がくると考えました。しかし1ヶ月待っても返事は来ません。ですからまた書きました。これを3年続けました。そうしたら、ようやく返事が来たのです。木曜日の17時〜18時のレッスンが空いたから、その枠で良ければオーディションを受けに来いという内容でした。これでアメリカのボストンに行こうと決めました。

しかし、母親にアメリカに行ってドラムを勉強してくると話したら、駄目だと言うわけです。あんたのような人間が1人でアメリカに行ったら麻薬中毒になるか、ピストルで撃たれて死ぬから駄目だ。どうしても行きたかったら当時付き合っていた女性と結婚して一緒に行きなさいと言われました。彼女と一緒ならいいのかと思いまして、その場で彼女に電話をして、結婚しました。私は25歳、彼女は23歳でした。そして26歳の時にいよいよ渡米のタイミングがやってきました。すると妻は「行ってらっしゃい!」と言って見送ろうとするだけで、一緒に行く気配がないのです。一人で行かせるつもり?と聞くと、まだオーディションが受かったわけでもないし、住む場所もない。そんな場所に新妻を連れていくのか、と。そして、ポケット英和・和英辞典を一冊渡されて、頑張ってねと言われたのでした。

そんな状態でボストンに着いたわけですが、もう右も左もわかりません。英語も話せません。まずはB&Bに宿を借りて、とりあえずアパートを見つけることにしました。しかし不動産屋という単語すら分かりませんでした。そこからなんとか不動産屋を探し、辞書で調べながら英作文をして、1ベッドルームを借りたいと伝えました。相手は何か話してくれますが、何を言っているのか分からない。それで、書いてもらおうと思って書いてもらったのですが、アメリカ人のハンドライティングが読めないのです。これはどうしようもないと思った時に、たまたまボストン大学の学生がインターンシップをしていて、彼がタイプライティングをしてくれて、なんとか読むことができました。
アパートは見つけたわけですが、このままではレッスンを受けられないと感じました。その時に見つけたのが、ビーコンストリートのいつも同じ場所に座っているお爺さんでした。その人に話しかけてみようと思いました。自分の境遇を話してみると、嬉しそうに応えてくれて、ここでお喋りしようと言ってくれたのです。お爺さんはボストンの色々な歴史を話してくれました。知らない単語が出てきたら、妻がくれた辞書を見せて、お爺さんが指差して教えてくれました。毎日4、5時間は話していました。そうしてだんだんと耳が慣れていきました。2週間ほどそのように過ごした後、ようやく先生のところに行ってオーディションを受けました。世界的なドラマーである彼はヴィブラフォンの演奏奏者でもあって、彼がそれを弾いて、私はそれに合わせてドラムをたたく。そういう試験でした。無事にパスし、レッスンを受けられるようになったのです。

ただ、週に1時間しか授業がないので、ビザがおりませんでした。それで半年で一度日本に帰りました。そして、また行こうとしたときに妻が学校に通うから、学生ビザで2年いられる、その間好きなだけ勉強すればと言ってくれました。学生ビザの家族も帯同ビザを与えてもらえるわけです。しかし、彼女がF1ビザ(学生ビザ)で、私がF2ビザ(学生扶養者帯同ビザ)。なんていうか、男のプライドっていうのが沸々とわきました。妻のおかげで滞在できる、ヒモだなと。

そこから何とか自分の実力でこの国に滞在する方法はないかを調べました。そしてグリーンカードの存在を知りました。次に、どうすればグリーンカードがもらえるのかを調べました。結局のところ、アメリカ合衆国が日本人である私に対して、ここにいてくださいと思ってもらえる人間になればいいということでした。それで寿司職人になろうと考えたのです。日本人にしかできなくて、アメリカに必要なものは寿司だと。今ではアメリカのスーパーでも寿司が多く並びますが、当時は寿司を食べる文化まだはなく、そんな店は一店舗もない時代でした。そこから寿司をかなり勉強しました。そして弁護士を通じてグリーンカードを申請したわけです。

 

今のビジネスはどのように始められたのですか?

寿司職人とドラムのレッスンの日々が始まったのですが、寿司の割合がどんどんと増えていきました。木曜日の17-18時はドラムのレッスンを受けて、それ以外はもう寿司ばっかり握っていました。ありがたいことに複数の店が声をかけてくれて、毎日深夜の2時半まで寿司を握っていました。そうすると練習する暇もないわけです。これでは駄目だと思って、自分のレストランを開こうと決めました。それを軌道に乗せれば、人に任せて、自分は音楽に専念できると考えたのです。そこでホテル併設のカフェを借りて、丸々ジャパニーズレストランに変えました。そこが私の最初の店です。

この店を軌道に乗せるために一生懸命働きました。そしてその時に、自分はいったい音楽で何をしたかったのかなと思ったのです。自分の音楽で人々に感動してもらいたい、喜んでもらいたい、笑顔になってもらいたいと考えていたのですが、この店に来てくれている目の前のお客さんたちも私の寿司でとても感動してくれて、笑顔になってくれているのです。それが分かると、このビジネスを他人に任せるのは勿体ないと思うようになったのです。そこから自分は音楽だけにとらわれず、スマイルクリエーターだと考えるようになりました。音楽はやるけれど、このビジネスもちゃんとやろうと突き進んでいきました。

最初の店は店舗契約が4年だけでしたので、その後ビーコンストリート沿いに寿司屋を開きました。そして店の前には行列ができるほど繁盛しました。ただ、席数が18席しかなく、冬のボストンで雪が降って外でお客さんたちが並んで待っているのはかわいそうだ、もっと広いところでやろうと考えました。そこから物件を探して見つけたのがニューベリーのスペース。寿司屋を売ってあり金全て投資しましたが、オーナーに騙されてしまい、全財産を失って借金まで抱えてしまったのです。

さぁ、どうしよう。家族を守るためにお金を作らなくてはと焦りました。それで内臓を売ろうと思ったのです。すると心臓、肺、肝臓、腎臓を全部売っても4分の1しか返せない。これは困ったと思っていたところに、妻にバレてしまいました。するとお腹を抱えて笑っているのです。「高い授業料を払って社会勉強したんだから、頑張ればいいじゃない」と言われました。頑張り方が分からないよと返事をすると、今まで色々な人が困って私のところに相談に来てくれた時は何を話していたのか?と聞かれました。それを思い出すと、色々な人から話を聞いて、色々な人の知恵を集めて、色々な人と問題を解決していけばいいと自分が話していたことに気づかされたのです。

そこから周りに相談を始めました。以前お世話になった寿司店の店長が日本の食料品店も経営されていたのですが、その頃閉店されることになり、その方からお店が無くなると困る人が出るから代わりにやったらどうかと打診されました。私はこれまでレストランしかやってきていないので、できるわけがないと断ったのですが、簡単だからやってみな、一緒に場所を見つけてやるよと言われて、場所を探すことになりました。さらに、レストランを20年以上やってきて、これまで支払いを遅らせたことはなかったのです。だから仕事関係者はみんな信頼してくれて、商品を貸すから頑張りなよって言ってくれました。そのため更なる借金が増える形なのですが、商品を借りて2010年にえびすやジャパニーズマーケットをオープンしました。

ビジネスは順調にスタートしたのでしょうか?

もちろん、簡単なわけがありませんでした。
既に韓国系のHマートや中国系スーパーが日本食を扱っていて、彼らのような資本のある企業は大量に仕入れて大量に売るため、安く売れます。同じ土俵では戦えないと考えて、顧客満足度を上げることに注力しました。どうやったらお客さんが嬉しいと思うか。自分が今までアメリカのスーパーで経験してきた嫌なことを全部思い出して、それらの無い店を作りました。例えばレジで店員が商品をスキャンしている時に、スキャンしている店員と袋詰めしている店員がずっとおしゃべりをしている。パンの上に2Lのドリンクを置かれる。
そういったことは全部止めようと思ったのです。さらに、その頃はクレジットカードをお客さんから預かって、店員がレジ側でスワイプしていましたが、カードをお預かりする時には両手で預かる。小さいクレジットカードを両手でいただいて、スワイプする瞬間に名前を見て覚えて、お返しする時に「山本さま、ありがとうございます」と言ってお渡しするようにしました。そして次にそのお客さんが来た時には、「山本さん、こんにちは」と呼びかけるようにしていきました。
すると、お客さんが少しずつ増えてきて、えびすやで買い物すると楽しいと思っていただけるようになってきました。理念というのは大事だなと思いました。そこから、お客さんに買い物を楽しんでもらう、という理念を定めました。店の奥でニラの傷んだところをちぎっていた時に、スタッフにちょっとこれやってくれると頼むと、つまらなそうにやっている時がありました。そこで、そのスタッフを表に連れて行って、お客さんがニラをわざわざ見比べて選ばずにサッと取っている姿を見せて、「ほら、お客さんが楽をしているでしょう」と伝えたこともありました。そうやってスタッフにも仕事の意味を分かってもらうような工夫も続けました。

2014年には借金を返しました。すると余裕ができて周りに目を配れるようになると、日本に元気がなくなってきていることに気がつきました。人口は減り、物価は上がらず、賃金も上がらない。日本に行く度に感じるのは物が安いということ。私がアメリカに来たとき、物が安いと感じたのです。1ドル220円くらいの時代でしたが、食べ物もガソリンも安かったのです。しかしそこから順調にアメリカは物価が上がり、賃金も上がりました。このままだと日本の国力がどんどん落ちていってしまう。何か自分ができることはないかと考えました。そこで考えついたのがアンテナショップです。生産者が良いものを作って売りたいが、人口が減ってなかなか売れなくなってしまっている。それなら海外に目を向けてもらえばと思ったのです。商品をお客さんに見せて、試してもらうということなら私が手伝えます。えびすやをアンテナショップとして使ってもらい、その活動を通して売れるもの・売れないものが分かり、なぜ売れるのか、なぜ売れないのかを分析できる。売れないなら、どうしたら買ってもらえるか。そのリサーチをしてもらえると考えました。そこから自治体で手を挙げてくれる人がいたら、フェアを開いて、例えば宮崎県のもの、八戸のもの、四国のものなどを扱ってきました。

他にもボランティアとしてボストンの日本語学校、ジャパンフェスティバル、講演などを行うようになりました。日本語学校は、寿司店をやっている時から教員をやっていました。たまたま近くに世界的なジャズトランペッターがいて、その人の家に呼ばれた時に、ルービックキューブがあったので、6面をパパッと揃えたら、奥さんがそれを見ていて「日本語学校で先生しなさい。校長先生に言ってあげる」と言われて小学校4年生の先生になったことがきっかけでした。ただ店が忙しくなって途中で辞めましたが、その後色々あって、今度は高校生に日本史と数学を教えていた時期もありました。今では日本語学校を運営する理事会に携わっています。日本語学校で教えていた生徒が日本に帰って高校や大学に進学してから、ボストンに私のような変わった者がいると先生に紹介したことで、高校生たちがボストンに短期研修に来る時に講演をしたり、日本の大学に招かれてスピーチをしたりするようにもなりました。

 

今やボストンで知らない日本人はいない経営者は、英語も分からないところから、途中借金をかかえても、どうやって道を切り拓いてこられたのか。挑戦者 Vol.15

元々の渡米のきっかけである音楽とはどう向き合っているのですか?

私は、音楽家なので音楽活動も続けています。
これも人の縁がきっかけですが、えびすやでアルバイトをしていた女の子のお母さんがマリンバ奏者をされています。そしてその女の子が、店長ってドラムをやるんだよ、とお母さんに話をしたようなのです。するとお母さんがお店に来られて、「ドラムをやってらっしゃると聞いたのですが、私たち夫婦は音楽をやっているので、今度一緒にやりませんか」と声をかけてくれました。そしてその時にちょうど開催を控えていた日本人会の新年会での演奏を頼まれました。いつもは他の方達と演奏をされているのですが、その方達の都合が合わないので、ドラムをやってもらえないかというお話でした。そして「これが私達のCDです」と言ってCDを渡されて1曲目と3曲目と6曲目をやろうと思うので聞いておいてくださいと言われました。仕事が終わって帰りの車の中でCDを聞いていたら、ちょっとおかしいぞと思って車を止めてCDのジャケットを見直したのです。すると、私にとっては神様的存在のベースとドラムスの名前が書いてあり、旦那さんのお名前も調べたら、グラミー賞を2回も受賞している方だと分かりました。その後セッションをしましょうとお家に招かれましたが、私にとってはオーディションのような時間だったことを今でも覚えています。

これをきっかけにその後も声をかけていただき、公演をご一緒させてもらっています。つい先日も熊本に行ってクラシックの公演でジャンベと言われるアフリカンパーカッションを担当しました。改めて、人との出会いは大事にしないとと感じさせられます。

今やボストンで知らない日本人はいない経営者は、英語も分からないところから、途中借金をかかえても、どうやって道を切り拓いてこられたのか。挑戦者 Vol.15
最後に日本の若い人たちにメッセージをいただけますか?

円安もあり、物価が低く、賃金も安いためなかなか海外に出られないのが今の日本です。ただ、ずっと家の中に引きこもっているのは良くないですよね。家の中にずっといたら、家の屋根がどれだけ汚れているかも分かりません。
一度出てみたら?と思います。外から見ると、色々な問題点が見えるものです。それから日本に帰っても、その問題に対して自分が向き合うことはいくらでもできると思います。もし外に出たくなったら、何も知らない、誰も知らない場所に出るよりは、誰か伝手があった方が出やすいと思います。どこどこに行きたいって言ってくれたら、私も一緒に探したいと思います。
私は人と人を繋ぐのが好きです。でも昔は人と話をするのが嫌でしたし、人と会うのも嫌でした。ただ寿司店をやっていた時がきっかけで変わったのだと思います。まだ携帯電話がカバンサイズで普及していない時です。ある日、夜中の2時半ぐらいに家に電話がかかってきたことがありました。誰だろうと思ったら、お店でアルバイトしていた学生でした。どうしたの?と聞くと、車を買って嬉しくなってドライブしていたら迷子になってしまい、帰ろうとしたがUターンする場所がなくてずっと進んでいたら舗装されてない道路に来てしまって穴にタイヤがはまって動けなくなってしまったと言うのです。それで「助けてください」と言われたのです。最初はこんな時間に誰が電話してきたのかと思ったのですが、「助けてください」と言われたときに、たくさんいるかもしれない友達や知り合いの中で私を選んでくれたことが嬉しく思えました。そこで、今どこにいるのか?と聞いたら、車を降りて結構歩いたところにホームデポがあり、そこの公衆電話から電話しているのですが、どこのホームデポかは分からないということでした。どうやってそこまで行ったかを聞いて、アタリをつけて向かいました。そしたら、そこにいたのですね。人から頼られたときの嬉しさを知るきっかけでした。私でも人の役に立つことが可能なのかもしれないと思うようになり、もっと人の役に立ちたいと思うようになっていきました。
最近では、甘酒がいかに素晴らしいものかを世界の人に知ってもらいたいと考える秋田出身の女の子と人づてに知り合うことがありました。秋田のお米で甘酒を作って秋田を盛り上げたい。私はその前に農水省のアドバイザーとして秋田に視察に行った時に、秋田のお米屋さんと知り合っていました。そのお米屋さんはアメリカ進出を考えていました。そこの専務である社長の娘さんと彼女をつないだら、その数ヶ月後にはボストンの私の家に二人揃って来てくれたのです。そして彼女はジャパンフェスティバルで甘酒を出展しました。私が人と人を繋ぐことで、その繋がりを大事にしてくれたりすると嬉しいものですよ。

如何だったでしょうか。本サイトでは、「私も一歩踏み出してみよう」と思える。挑戦者の行動を後押しする記事をご紹介しています。

次回の記事もお楽しみに!

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    Boston SEEDs は B-SEEDs LLC (Delaware, US) 運営のオンラインメディアです。”Entrepreneurship Mindset”のカルチャーを世の中に更に浸透させるべく主にボストン在住の現役の MBA 生がボランティアで活動運営しています。 Note

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