この記事は、起業家教育で29年連続世界No.1スクールであるバブソン大学(アメリカ・ボストン)のMBAの卒業生たちにインタビューし、彼らの挑戦に迫るシリーズになっています。MBAという大きな挑戦を経験し、卒業後もなお挑戦を続けている方々へのインタビューを通じて、挑戦への向き合い方やそのマインドセット、それをどう乗り越えてきたのかなどを共有することで、読者の方々の挑戦へのMotivationを刺激し、一歩踏み出す一つのきっかけを作ることができればと思っています。
第4回目は、渡邊謙次(わたなべけんじ)さんにお話を伺います!
最初に自己紹介をお願いします!
渡邊謙次です。
立教大学の観光学部を卒業し、その後父の会社で大体10年弱働いていました。父の会社は東京都江戸川区にある小さな町工場、売り上げは2,3億ぐらいの小さな印刷工場なのですが、そこでもう現場、経理、総務、営業など様々な事をやらざるを得ない環境で、ファーストキャリアを積みました。
そのような環境で、印刷業界という斜陽産業は何かしら新しいことに挑戦しなくてはいけないという思いや、ずっと父親の下で働いてきて、父親の姿を見る以外で「経営」とはどういうものなのかというのがあまり理解していないところがあり、「MBA受けてみようかな」とサラッと思いついたんですね。そこからGMAT、TOEFLの勉強をして、2016年にバブソンカレッジに合格し、2018年に卒業後は日本に帰国し、サーチファンドを開始しました。
1年間のサーチファンドでの活動期間を経て、塩見組という北九州にある建設土木の会社を事業継承することになり、現在3年目です。代表取締役として塩見組の企業価値を上げる仕事をしております。
MBA留学でバブソンカレッジを選んだ理由は何ですか?
印刷業界で新しいことに挑戦しなきゃいけないという思いを持ち米国のスクール一覧を見たときに、バブソンカレッジというアントレプレナー教育にかなりエッジを効かせた教育機関があるというのを、エッセイカウンセラーの方から伺い、興味を持ちました。
バブソンのことを調べていくうちにファミリービジネスの教育にも力を入れていると知り、自分自身がファミリービジネス出身者であり、なおかつ新しいことに挑戦するというアントレプレナーシップを学べる場であるというところからバブソンカレッジを選びました。
(MBAの二年間で印象に残っていることはという問いに対して)
同級生の皆が各々の形でアントレプレナーシップに思考を持っていた点です。
ファミリービジネス出身者が結構多かったのですが、家業に戻り何か新しいことをやるという気持ちで来ており、そこに自分が身を置くことで「ファミリービジネスでも新しいことに挑戦するのは当たり前なんだ」という思考になれました。それがバブソンカレッジに行き一番印象に残り、高い学費を払ってよかったなと思ったところです。
10年間のファミリービジネスの経験と、バブソンでアカデミアとして学ばれたことが関連した点はありますか?
親父の会社のビジネスは、仕事を引き受け、印刷物を制作し、納品をするという流れなのですが、以前まではその中でしか経営というものを見れていなかったと思っています。
MBAに来て印象的だったのは、例えば「buying a small business」というM&Aの授業があり、「印刷業って確かに斜陽産業だけど、プレイヤーが少なくなっていく中で他の会社を買って、事業自体を大きくしていくっていうふうなこともできるよな」という、自分が持っていなかった選択肢に気づくことができました。MBAはアイディアのオプションを増やして、私が今まで知っていたビジネスの目線感とは違うところを提供してくれたと考えています。
(卒業後アメリカに残る選択肢はありましたか?という問いに対して)
アメリカで働くとなると、語学力がどうしてもハードルになるなと思いました。
結局は父親の会社を継がず、他のことをやることになるのですが、私は日本に帰国して、バブソンで学んだことや、自分のバックグラウンドを生かせるようなことをやりたいなと思っていました。
その後サーチファンドを通じ事業承継をされたのは、どういった背景があったのでしょうか?
本当にたまたまなんですよね。私自身はMBAの中でサーチファンドというものを知ってはいましたけど、実際自分自身がやるとは思っていなかったです。
日本に帰国し2ヶ月ぐらい経ったときに、MBA時代の知り合いが、Facebookで、「サーチファンドのアクセラレーターをやります、そのセミナーをやるので、もし良かったら皆さん集まってください」と発信をしていたんですね。主催しているのはJaSFAの嶋津紀子さんで、JaSFAとIESEが主催したサーチファンド・カンファレンスに参加したのですが、これって自分の今までのバックグラウンドやMBAで学んだことを活かせるキャリアかなと思い、次の日には嶋津さんに履歴書、レジュメを送っていましたね。
“サーチファンドを通じた事業承継プロセス”についてもう少し具体的に教えていただいてもよろしいですか?
まず私の場合はいわゆるトラディショナル型のサーチファンドとは異なるアクセラレーター型(アルタネイティブ型)のサーチファンドを利用したので、そこでの例になります。
私の場合はGPにジャスファ(JSPA)と山口キャピタルがおり、LP出資してくれているのは地銀である山口フィナンシャルグループでした。当時は彼らの地盤でサーチ活動することになっていたので、福岡、山口など、岡山より西側で、彼らの顧客を中心にサーチ活動をするという流れになりました。
プロセスとしては、最初に私自身がミード・ストリートという特別目的会社を作り、そこへGP側から出資、会社としてサーチ活動をスタートしました。大体20から30社ぐらいの会社を回ったと思います。
1年間の決められたサーチ期間があったので、1年以内に会社を見つけられなければ終了という契約ではあったのですが、幸いにも塩見組と巡り合い、事業承継に至りました。当時は代表取締役だった塩見組の現会長や当時の役員メンバーと面談し、様々な話をして、最終的に1年は掛からず合意をしました。2019年の5月からサーチ活動を始め、2020年の2月に塩見組の全株式を取得したので大体8ヶ月ぐらいの期間で、全サーチ活動を終えました。
サーチ活動は、基本的にJaSFAなどアクセラレーター側が提案してくれるのでしょうか?
当時はJaSFA代表の嶋津さんにとっても初めてのケースでしたし、日本ではサーチファンドという枠組みが他に伊藤公健さん(サーチファンドジャパン代表取締役)という方が実行されたという話はあるのですが、ほぼ初の事例でしたので、アクセラレーターから特に指南を受けたわけではなかったですね。全て手探りでやっていくしかないような状況で、契約書とかも今はある程度雛形ができていますが、当時は一緒に協議しながら一から作っていきました。
東京近くで活動しているサーチファンドに行くなど他の選択肢は検討されましたか?
嶋津さんとの偶然の出会いから話が進んだので、あまり考えていなかったです。
それに、東京にそういったものがなかったですね。当時、『サラリーマンは300万円で小さな会社を買いなさい』っていう本が結構売れたんですよ。そのタイミングで個人が会社を買うっていう流れは少しありましたが、 日本全体でもサーチファンドとしての事例はなかったですね。
(事例が少ない中でサーチ活動を行うことへの不安はありましたか、という問いに対して)
不安は、特にはなかったですね。独身でしたし、別に何か守るべきものがあったわけでもなかったので、自分で行こうと思えばどこでも行けたっていうところもあります。むしろ36歳でアメリカに行くまで東京で生活していたので、地方で生活する事への興味もあり特に不安はなかったですね。
起業や就職するよりも、事業承継というのが自分自身に適していると思われた点はどこになるのでしょうか?
バブソンカレッジのMBAを受ける際にエッセイを書くのですが、そこでLong Term Goal(長期目標)として、「中小企業のロールモデルとなる経営者」のような類のことを書きました。
バブソンの在学中には、「中小企業のロールモデルって結局何なのだ」という問いの解はあまり考えられなかったのですが、実際サーチファンドで中小企業の社長から事業継承するという活動、一つのロールモデルになれるなと思い、自分の目標に合致していると思いました。
ご実家の経営を継がなかった理由をお聞きしてもよろしいですか。
在学中に、弟が会社を継ぎたいって話になりました。
私自身が実家で働いていたとき、叔父(父親の弟)や母含め家族総出で事業を切り盛りしていたのですが、家族で経営する難しさというのもやはり存在し、特に父親と父親の弟が喧嘩しているのを間近で見てきたんです。
自分の実弟と、将来的にそうなっていくのはあまり気分のいいものではないですし、それなら自分自身せっかく海外MBAで留学に来ているので、弟に会社を任せて自分自身は違う場所で挑戦しようと決断しました。
サーチャーとして数々の企業に会われた中で、塩見組を選ばれた理由を教えてください
くい打ち業界はプレイヤー数が大体全国で800社程度、市場規模も1兆円ぐらいあります。土木は日本で今後も絶対必要で、特に塩見組の強みは海上土木にあるのですが、瀬戸内周辺では地震が将来頻繁に発生すると予測されており、土木の仕事が増えると言われたりもします。
加えて、瀬戸内のコンビナートの一部はすごく老朽化が進んでおり、1970年代80年代の高度経済成長期に建設された建物であるものが多く、需要が見込まれます。例えば、福岡では今「天神ビッグバン」と呼ばれる再開発が進められており、そのような経済環境もあり、「市場環境は悪くはない、将来的に伸ばせるな」というところが第1のポイントです。
また、立地的も小倉から近く、福岡にも新幹線20分で行けるような環境で、空港も福岡空港や北九州空港があるので東京に1時間から1時間半程度でアクセスできる交通の便がいい場所というのも魅力を感じた点です。
塩見組での経験がなくいきなり経営者として着任された中で、事業承継だからこそ達成できたことと、苦労したこと、教えていただいてもよろしいですか。
まず苦労したのは、やはり知識面ですね。私自身土木の経験はないですし、自分でいろいろ勉強もしましたが、どうしても未だ浅いなと感じてしまうところが、オーナーとは違うなと思います。私の父を思うと、印刷に豊富な知識を持っており、私は土木についてその知識レベルに相当するものがあるかと言われると全然なく、日々勉強はしておりますが、難しい点が非常に多いのは苦労しているところですね。
また、外様ですので人間関係に気遣うところがあり、今までの流れを崩さずに自分が継承して、何か新しいことへ会社全体で挑戦していくことには難しさを感じました。
一方で、外様だからできたことも当然ながらあり、例えば土地の移転がそうですね。同じところで、40年構えていた会社だったのですが、私が就任した10ヶ月後には引っ越しをしました。損益計算書上、どうしても賃貸料が高いウエートを占めていたので、そこはもう「自分が代表者なんだから移転します」と声をかけて、一気に行動に移しましたね。それはやっぱり外様ならではのところだったかなというふうに思います。
既存社員の方々との関係性はどのように構築されていますか。
極力、イベントなどで親交を深めるようにはしています。最近では「塩見カップ」のようなゴルフコンペや、バーベキューを実施しました。ただそれ以外でのプライベートでは会うことはないですし、ある程度の距離感は保ってはいます。
自分自身の性格にもよるとは思うのですが、近すぎず遠からずな関係を保ってやるようにはしています。スタンフォード大学が公開しているサーチファンドのプライマー(指南書)があるのですが、それによると「大体就任してから2年間は何を手付けるな」というのが鉄則のようです。意図は既存社員達との関係性を悪くしないためにという事ですが、私は土地の移転などすでに色々とやってしまった。とはいえ社員達と関係性が悪くなっているとは思っておらず、さじ加減をどうやってうまくやるかというところですね。バランス感覚を保つとも言えるかもしれません。
経営者として今後どういうことに挑戦しようと思っていますか。
私がこの会社に入り、新しく杭抜の事業を開始したのですが、なかなかそれが軌道に乗っていないんですね。既存の杭打ち事業で、キャパシティがいっぱいいっぱいで、山口フィナンシャルグループにご支援いただき、杭抜の機材を購入してはいますが、そっちになかなか人手が回せず、その機材はレンタルに回してしまっています。ですので、そこの売り上げ成長させるのが、私の中では課題です。
加えて、今までは大型のくい打ち、例えば大型マンション、大型商業施設。土木であれば、コンビナートの出光や大手の護岸工などを領域にしていたのですが、今後は住居や、小さい工場のくい打ち、小規模のくい打ちに手を広げていこうと思っています。新しくその領域の営業社員も採用し始め、くい打ちの裾野を広げることにも、挑戦しています。
振り返って、「事業承継」を他の人におすすめされますか?
考え方やバックグラウンドが異なるので一概には言えませんが、MBAのような学びを経た方々は私は絶対やるべきだと思います。
MBAの授業って結局どうしても浅く広くみたいな形になってしまうんですね。
浅く広く学んだことを実践して深掘りしていくというのが、この事業承継ではできると思っています。
私自身、今の会社を終えたらもう一回り大きい会社をやりたい、連続でサーチファンドをやっていきたいという野望を持っているのですが、MBAからサーチファンドをやり、キャリアを積んでいくというのは、一つ面白いキャリアパスになるのではないかと思っています。それに何よりもやりがいがありますね。自分で裁量権持って行動していくのが、やりがいがあり面白いところです。
起業も裁量権はありますが、本当にゼロから作らないといけない分選択肢の自由度に低い点もある。サーチファンドで、事業承継をして元々リソースがある中で裁量権を握るというのは大きな違いがあり、そこにやりがいを感じられるのかなと思います。
事業承継を成功させるにあたって、重要なことって何だと思いますか。
既存のビジネススタイルを急激に変える必要はなく、レベニューがある分野は大事にしていかなくてはいけない。
自分自身がそこに介入することで悪影響を起こしてはいけないというのが、まず鉄則じゃないかなと考えます。
塩見組での挑戦でコンフォートゾーンを出て一番挑戦したなと思うことはなんでしょうか。
3,4ヶ月で土地の移転に取り組んだっていうのが、やっぱり自分の中で1番コンフォートゾーンを出した経験でしたね。
当時、そもそもコンフォートだったのかという話はありますが、自分が代表者になれば、裁量権あってリソースもあって、裁量権発揮して何か新しいことをできる環境っていうのがあります。ですがその一方で、やはり会社というのはどうしてもその地域にあるものなので、いろいろな地域絡みのコンフリクトが存在します。
例えば土地の移転に関して言えば、私達が使っていた土地の家主が、LP出資していただいている山口フィナンシャルグループにとっては大口のお客様だったんですね。その顧客のへそを曲げるようなことは絶対に許さないという雰囲気があり、山口フィナンシャルグループの方からも移転の反対があったのですが、結局自分がその家主に直談判しにお伺いし、移転を決めました。様々な方から色々なご意見を頂きましたが、相手方に通いつめ、地銀の支店長と共にお伺いし、私達が抜けた後の借主を私達の方で探しますという提案を行うなど努力をし、移転の許可が下りました。
ここでお伝えしたいことは、何か行動したりすると周りからの反論が常々出ます。行動しなければ居心地が良いのですが、何かやる上ではそこから行動してコンフォートゾーンを脱する事が必要であり、裁量権を発揮し何か新しいことに挑戦する、環境を変えるということ活動は重要だという事です。
今も進行中で、新しい小規模のくい打ちなど、社内でも何かうまくいかないというような話が出ることもありますが、そこを覚悟を持って進めていくことが重要。実際そんなのやらなければコンフォートでいられるとは思うのですが、挑戦し続けていかないと腐っていくのではないかという思いもあるので、大事にしていきたいですね。
渡辺さんは会社でも外様なだけでなく、地域ともゆかりがないから、1からコネクション作っていかないといけないんですね。
そうですね。でも先ほどの話で家主だった方は、実は今では良き相談相手になっていただいています。頻繁に経営のアドバイスをもらいにお伺いしています。こちらの地域の方は懐が広く、飛び込めば受け入れてくれる人も結構多くて、外様ではありますが自分自身の足でいろいろな人に会い仲良くさせてもらえています。
最後に渡辺さんの中期的な挑戦を教えてください。
サーチファンドの組成というのは大体10年と決まっています。
私が最初に投資を受けたのは2019年の5月で、2029年の4月までに会社をどうにかする必要がある。MBOなのか、他の会社とのM&Aなのか、様々なオプションがある中で、どういうふうな形で塩見組のイグジットを成立させていくのかというのが一つの課題であり挑戦です。
他社に売却するのであれば他の会社を探さなくてはいけないですし、従業員に受け継ぐのであれば従業員の経営者教育をしなくてはいけない。それがまずは自分の仕事ですね。
一方で、私自身は先ほど申しましたように野望があり、シリアルにサーチファンドをやっていきたいと考えており、将来的にトラディショナル型なのか、今回と同じようなアクセラレータ型なのか、また違った形での事業承継というのを選ぶのかわからないですが、もう一つ上の段階に自分のレベルを引き上げていきたいと思っております。
ネガティブな自分をプッシュするために心がけていることはありますか。
MBAの周りの仲間が、今CFOなどで活躍しているところを見ると、何もしなければ自分だけ置いていかれてしまうと感じます。なので、常に少し波風が立つようなところに身を置くということを大事にしています。
ありがとうございました!
今回は、「起業家教育No.1スクール卒業生たちの挑戦Vo.4」として、渡邊謙次さんのインタビュー記事をご紹介しました。如何だったでしょうか?本サイトでは、「私も一歩踏み出してみよう」と思える、挑戦者の行動を後押しする記事をご紹介しています。
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